兼好法師と老子。荘子です。 兼好法師と荘子のつづき。 参照:兼好法師と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005166/ 兼好法師と荘子 その2。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005167/ 「ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。 文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。(『徒然草』第十三段)」 → 燈火の下で一人、書物を広げて知らない世界の人を友とするのは、この上もない安らぎだ。文では『文選』の感銘深い巻々、『白氏文集』、『老子』、『荘子』。日本の博士たちが書いたものでも、古いものであれば深みのあるものが多い。 『徒然草』の第十三段で、兼好法師が愛読している書物のうち、今回は老子で。 「唐の物は、藥の外は、みななくとも事欠くまじ。書どもは、この國に多く広まりぬれば、書きも寫してん。唐土船の、たやすからぬ道に、無用のものどものみ取り積みて、所狹く渡しもて來る、いと愚かなり。 「遠きものを寶とせず」とも、また、「得がたき寶をたふとまず」とも、書にも侍るとかや。(『徒然草』第百二十段)」 →中国のものは薬の他はなくてもやっていけるものだ。書物はこの国にも多く広まっているのだから、書き写せばよろしい。危険を冒してまで中国へ往き、不要な物をぎっしりと詰め込んで帰るなど愚かなことだ。 「遠くの物を珍しがるものではない」とも、「得がたい財貨を貴ばない」ともかの国の書物にあるではないか。 日宋貿易や日明貿易の頃ですから、日本がまだ貨幣を輸入していた時代です。物質的なものを忌避する態度というのは、『徒然草』での一貫した姿勢ですが、兼好法師は命の危険を冒して財貨を求める交易を「愚か」と一蹴しています。 まず「得がたき寶をたふとまず」は、『老子』の六十四章。 『是以聖人、欲不欲、不貴難得之貨。學不學、復衆人之所過。以輔萬物之自然、而不敢爲。(『老子』第六十四章)』 →是をもって聖人は、欲せざるを欲し、得難きの貨を貴ばない。学ばざるを学び、衆人の過ぎたる所を復す。以って万物の自然を輔け、それでいて敢えて為すことがない。 基本的な思考は、老子の第八十章。 『小国寡民、使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗。隣国相望、鶏犬之声相聞、民至老死、不相往来。(『老子』第八十章)』 →小さな国で民も少ない、利器があろうとも用いることなく、民をして死を重大事としてそこから遠ざからしめ、船があれども乗ることはなく、甲兵があれども仕事はない。人々を結縄の民へと復せしめ、その土地の食を甘いとし、その土地の服を美とし、その土地の住まいを安とし、その土地の俗を楽とする。鶏や犬の声が聞こえるほどの隣国と相望んでも、民は老いて死ぬまで互いに往来することもない。 生まれ育った場所で自己を完結するという「小国寡民」という老子の言葉です。 「何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知り顔にやは言ふ。片田舎よりさし出でたる人こそ、万の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあれど、自らもいみじと思へる気色、かたくななり。よくわきまえたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ。(『徒然草』第七十九段) 」 →何事も知っているというそぶりを見せないことがよい。優れた人は、知っていることですら、知ったかぶった態度を取るものであろうか。片田舎から出たような人に限って「自分は何でも知っている」というような態度をとるものだ。相対しているこちらが気恥ずかしくなるが、自ら誇らしげにして、その態度を崩さない。よく精通していることがらであれば、必ず口を閉ざし、質問がない限り発言しない姿勢こそ、素晴らしい。 『知不知上、不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病、以其病病、是以不病。(『老子』第七十九章)』 →知りて知らずとするは上、知らずして知るとするは病である。ただその病を病とする、これによって病ではなくなる。聖人は病に至らない。その病を病とする。これによって病ではなくなる。 「知らざるに止まる」とか「不知の知」とよばれるもので、『論語』における孔子の言葉と対比される部分です。 『子曰、由、誨女知之乎、知之爲知之、不知爲不知、是知也。(『論語』為政第二)』 →子曰く「子路よ、お前に「知る」ということを教えよう。知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとすること。これが「知る」ということだ。 ・・・こういうところをやりだすと、ソクラテスの「無知の知」も引き合いに出し始めてきりがなくなりますが、洋の東西を問わず、賢者にとっての大きな命題としての「知」について、兼好法師は老荘思想の立場をとっています。「「多言はしばしば窮(きゅう)す。中を守るに如かず(『老子』第五章)」の側、「言う者は知らず、知るものは言わず」の側に居ます。 参照:Wikipedia ソクラテス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9 そもそも、なんですが、兼好法師・「卜部兼好(うらべかねよし)」の「卜部」というのは「亀卜」の「卜」で、神職の家系の人です。兼好法師だけでなく、彼のおじいさんも、お父さんも神祇官という朝廷の祭祀を司る役職にいました。たとえば「赤舌日(しゃくぜつにち)といふ事、陰陽道には沙汰なき事なり。(第九十一段)」「 太衝(たいしょう)の太の字、點打つ打たずといふこと、陰陽のともがら、相論のことありけり。(第百六十三段)」「陰陽師 有宗入道、鎌倉より上りて、尋ねまうできたりしが、まづさし入りて、( 第二百二十四段)」と、陰陽道への造詣を披瀝したり、陰陽師との親交を記録しているところにも、彼の出自の特殊さが見て取れます。 『天子、諸侯、太夫、庶人、此四者、自正、治之美也。』(『荘子』漁父 第三十一) →天子、諸侯、太夫、庶民の四者が自ずからその地位を正とするのが治世の美である。 『荘子』の漁夫篇に、漁師が孔子に向かって話す場面がありますが、これ、鎌倉時代の「正治」という元号の出典です。現代の学者ならいざ知らず、当時の朝廷のお役人が、最低限の素養として『老子』や『荘子』読んでいるのは自然、というより当然のことです。 参照:Wikioedia 正治 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B2%BB ここは注目しておきたいんですが、兼好法師が「卜部兼好」ではなく、「吉田兼好」として名前が通ったのも、江戸時代の神道界で一大勢力を築いた「吉田神道」の家系として認知されていたからだと思われます。吉田神道は、全国の神官の任免を裁量して「神道裁許状」を発行する権限があったほどで、兼好法師がこの世を去って後に、かつての「卜部家」、後の「吉田家」は神道を代表する一族になっていきます。 参照:Wikipedia 吉田神道 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%A5%9E%E9%81%93 で、この吉田神道の思想というのが、密教や修験道の要素も強いものの、道教の要素が見られるんですよ。 たとえば、吉田神道の経典『唯一神道名法要集』にはこうあります。 「元者、明陰陽不測之元元、本者、明一念未生之本本(中略)宗者、明一氣未分之元神、故帰萬法純一之元初、是云宗、源者、明和光同塵之神化、故開一切利物之本基、是云源、故頌曰、宗、萬法帰一、源諸縁開基、吾国開闢以来、唯一神道是也(『唯一神道名法要集』より)」 ・・・途中に「和光同塵」の文字があります。また「一氣未分之元神」として、『日本書紀』が『淮南子』からパクリそこねた「氣」の概念がはっきりと出ています。神道の優位性を説くこの教義は、神道の本来の「道」に立ち返って再構築しようとしている傾向があります。 参照:「元気」の由来と日本書紀。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5082/ 『道沖而用之或不盈。淵兮似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似或存。吾不知誰之子、象帝之先。』(『老子』第四章) →道は虚の器であり、用いても満たされることはなく、底知れぬ淵のような万物の源のようなものだ。鋭さは挫かれ、紛らいは解かれ、その光を和らげ、塵と同じくする。奥底で何かが存しているようだ。私はそれが何によって生じたか知る由もないが、万物が(天帝から)象られる前の存在であろう。 「よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙觀が刀はいたく立たず。(『徒然草』(第二百二十九段)」 →優れた匠は、少し鈍い刀を使うという。妙観の刀は鋭くはない。 これは推測ですが、兼好法師の代の卜部家では、すでに優れた注釈と共に『老子』や『荘子』の他、道教の経典が豊富にあっただろうと思われます。 今日はこの辺で。 |